
ポーランドに来たのは1989年。ある冬の散歩でゴルツエ山脈にあるこの場所に出会った。ハルクローヴァ村の上に横たわる美しい山の斜面。雪に覆われたタトラ山脈とその裾野、ドナイエッツ川などの雄大な眺めは、高校時代を過ごした北海道を彷彿させた。日本ではすべてが満たされていたのに満足感がなかった。当時55歳で女性は定年、虚しさが残る。
この場所に魅惑された私はこの美しい斜面を買い、ここにペンションを建てることにした。
道は長い間、木を切り出して引きずって来たため、一メートル半ほどの深さになった林道で粘土質の泥の道はトラクターでも4輪駆動の車でも通れなくなり、道に石を入れるしかなかった。砂、砂利、石、セメント、レンガ、木などすべて上まで運ばなければならない。1991年に始めた建築も2年半で何とか仕上がった。(道の問題は長く残る)美しい眺めとともに12部屋24人収容できる山小屋風木造のヴィラが、暖炉のサロンやビオ浄化槽を備えて完成した。ヴィラを建てる間にずいぶん健康も崩し、精神的にも苦しかったが、代わりに二倍の生きる力と親友たちを得た。建築中に日本から子供たちが順次来て、大変な時期を一緒に生き延びた。後に友人たちとポーランド―日本交流、環境を蘇生するための虹の会を立ち上げ、様々な文化交流やエコロジーの教育を通して自分たちの周囲の環境を良くしようと試みた。桜まつり、凧揚げ大会やコンサートなども日本との文化交流の一環だった。
ここの住所は有明。村会議、郡会議、県会議を通して承認され、公式住所となった。有明は夜明けが近づいているけれど、まだ月が明るく空にかかっているその特別な時の状態をいうのですが、私が生まれ育ったのは九州の有明海に面した八代、最後に住んでいた場所も長野穂高の聖山有明山の麓、有明。有明には縁がある。
日本では人生がここより早く過ぎる気がした。人々はどこでも押し合いをしている気がする。何かに間に合わなければいけないし、遅れてはいけないから。今はポーランドのテンポの方が好き。遅れてもいいから:)でも野の花が咲くのは見逃さないし、とうひの森のざわめきも鳥たちが歌っているのも聞き逃さない、雲の流れも。どこへ行こうと、私は私の村ハルクローヴァに喜んで帰ってくる。休暇や祝日などは子供たちが孫たちとやってくる。(8人の孫のうち、5人はポーランド、3人は日本)”ついに私はここ、自分の家にいる〟って感じ。
三和昭子
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